oracleとエゴちゃん

 

 

 

 そのひとが心の奥で“ほんとうはわかっていること”を言葉として形にすることで想像から現実に働きかける力をもつものが、“オラクル”と呼ばれるもの。

 

 それはそれを受けとった本人が「これはすでに自分の知っていること、いわれなくてもわかっている」と感じようが、「あらたな気づき、自分からは視えない角度からの視線だ」と感じようが、それを言葉という形あるものとして受けとった時点で、現実のなかに想像から創造へと変化してゆく力をもつもの。

 

 それが“オラクル”と呼ばれるものなのではないかという話をひとにして、そのような話をするとき他者をとおして自分自身が鏡のように反射し、他者に語りかけながら自分に語りかけてもいる“わたし”を感じる。

 

 そのようなとき、自分が自分に、そして他者にどのような言葉を使っているか、重要なことなのだとあらためて感じもする。  他者に放つ言葉は反射して自分自身にも返ってくる。自分にむける言葉なら、それはなおさら強く返ってくる。それが強すぎて“鏡”が罅割れることもある。

 

 その罅割れた鏡の破片が心に刺さることも。雪の女王のお話のそれのように。  “オラクル”は特別なものではなく、それぞれがそれぞれに放つ言葉のすべてはその一部であるということ、他者に語りかけながら自分に語りかけている“わたし”を感じるとき、そのようなことをあらためて思ったりする。

 

 ――これと関係ないようである話だけど、エゴと呼ばれるもののことを「エゴちゃん」と呼んでいたりします。

 

 それはいつかの自分に必要だったから自身のなかにあるもの。それが現実には防御や停滞をもたらすものだったとしても、自分自身の一部でだったことに変わりなく、否定されれば悲しい。

 

 否定して排除するのではなく、自然に溶かしてあげたい。安心したあとにこぼれる涙みたいに、透明にあたたかく。

 

 

 とはいえ、

 

 それがあまりにおおきくなり怖くて脅えているときは、「怖くないよ」とエゴちゃんがそれを纏いすぎているがゆえに身動きできなくなっている衣を脱がしてあげることも、大事なことではあるかもしれない。たくさん着込んでいると疲れちゃうものね。