プラスとマイナスのあいだ
あるひとが「一見おとなしそうに見えるひとほど気が強かったりすると思う」といったので、どういうことか話に耳を傾けると、
「おとなしいから周りに流されるのかと思えば、些細なことで猛然と抗議したりする。
反対に明るくてちいさなことは気にしなそうなひとほど、繊細で傷つきやすかったり。
おとなしそうに見えるひとが強くて、オープンハートに見えるひとが脆かったりすることってよくあるような気がして」
そうつづいた言葉を聞きながら、「そういうこともあるかもしれないけど、でもかりに」とわたしは返していた。
「その場合の“強さ”が、強さというよりプライドからくるものということもあるのではないでしょうか。そしてプライドの高さは劣等感に比例することもあるから。それは防衛反応みたいなものとして出ていることもあるのかもしれないと思います」
自分に矢印をむけたネガティヴなもの、コンプレックス。
他と自身を比較し、比較され、それがおおきくなるとわたしたちの心は殻をかぶる。それは自分を守るための殻で、その内側に潜む負を他者に覗かれることを防御している。
心を防御する動きがプライドで、だからその殻を刺激されるようなことがあると怒りを感じる。怒りは本来自分自身のコンプレックスに対するものだけど、“外”から刺激されて反応したように自身では感じるため、それを刺激した相手に怒りを覚えていると自分では思っている。
しかしほんとうにそのひとが“怒り”を感じているのは自分。
そういうこともあるのではないかと思う。
そして「明るくてちいさなことは気にしなそうなひとほど、繊細で傷つきやすかったり」ということがあるならば、それもまたおなじことなのではないか、とわたしには感じられる。
「ちいさなことで傷つきやすい」からこそ明るさによって自分を守っている。その明るさも生きてゆくうえで身につけたある意味での「笑顔の殻」であることも。
要は「傷つきやすい」自分を守るために殻をかぶっているということで、それがプラスかマイナスかの違いではないかと。
明るくてちいさなことを気にしなそうなひとが、周囲には思いがけないことで傷ついて悲しむ。
おとなしそうに見えながら、些細なこと(とまわりには感じられるような。当人には些細ではないこと)でプライドを刺激され、怒りをあらわし自分を守る。
その悲しみも怒りも、おなじところから生まれているのではないかとわたしは思う。
そしてそれが“生まれた”根源は、そのひとがもう覚えていないような過去にあったりする。潜在のなかで眠っている出来事や感情のなかに。
プラスとマイナスは、“外”から見れば異なるもののように思える。でもあらわれているかたちが違うだけで、その発生源をおなじにしている。
その発生源にある0(ゼロ)。プラスでもマイナスでもない場所。
ほんとうの“強さ”を宿すひととは、その0地点に自分の軸をもつひとなのではないか。
上でも下でもなく、右でも左でもなく、プラスでもマイナスでもない、その中間。
それがつまりバランスということ。
0ははじまりの数字。それは“生まれるまえ”をあらわす。プラスやマイナスが生まれるまえ。
0ののちにわたしたちは生まれ、そして生きてゆくなかでたくさんのプラスとマイナスを自分自身にまとい、かぶせ、本来の自分からいったん遠ざかる。
本来の自身を他者から隠そうとし、自分自身からも隠そうとする。
自分で自分の秘密を覚えていないほど遠い過去に心の0地点に封じて、その0から離れる旅をし、そしてあるとき自分自身から逃れたくておのれを見失うほど遠くまできたとき、自分自身からは逃れられないとほんとうの意味で気づき、それを受けいれるため、それまでまとったりかぶせたりしてきたプラスやマイナスをひとつずつ片づけるために、また0へと戻る旅をする。
それが自分自身に還る旅で、0からはじまった旅がまた0に戻るには、いったんそこから遠ざからなければいけない。それが「自分以外のものに預けていた自分のパワーを取り戻す」ということで、0に還る旅のなかでわたしたちは自分の器を拡大し、ほんとうの“強さ”を知ってゆく。
強さや脆さってなんだろうなと考えながら、そのようなことを感じたりしたのでした。
このことは文字に書き起こしておきたかったので。
わたし自身のために、そしてどなたかに感じるものがありましたら〇