エネルギーワークについて

 

 

 わたしのセッションは、いわゆる「エネルギーワーク」と呼ばれるものです。

 

 そしてそれがどのようなものかわからない、説明を聞きたい、とお言葉をいただいたこともありました。たしかに、「自分の知らないもの」で、なおかつ「目には見えないもの」ならば、それがどのようなものかを知りたい、そしてそれを正確に理解できないうちは、施術を敬遠する、ということがあるのも当然だと思います。

 

 そのうえでエネルギーワークは、そういった思考がつくりだすものの「外」にあるものだと、わたしは思っています。

 

 

 たとえば「自己愛がわからない」とき、頭で考えてもそれが「わからない」ことが多いのだということを、わたしは経験で知っています。それは頭ではなく心の領域だからです。「考えていること」と「感じていること」の違い。そして自身の「思考」こそが自分の「感情」であると思っていらっしゃるかたもたくさんいる。頭で考えていることを、心が感じていることだと“考えている”。

 

 愛というのは自分に「苦しまなくていいんだよ」といってあげることですが、そこまでは多くのひとがわかっています。

 

 けれども頭でわかっていても「からだで感じられない」――“だから”自分で苦しむ現実をつくったりする。苦しくなかったとしても、誰かが自分を愛してくれていたとしても、その愛を遠ざけてしまうように自身のからだが反応してしまう、というか。

 

 エネルギーワークはからだに働きかけるものなので、「頭で考えなくても」からだが受けとるものです。自分でさだめた制限が思考にはある。その思考の外に働きかけるものとして。バーズもフェイスもボディプロセスも、そのようなものです。

 

 エネルギーワークは「自分のなかにエネルギーが流れていること」を感じる「感性」を知るもの、育んでゆくもの。

 

 それはからだの「見えない“触覚”」を育むこと。

 

 人間は自分の触覚が育たないと愛が感じられないように、できているようなのです。

 

 それを「閉じて」きたひとは「愛がわからない」のではなく、「愛を感じる触覚を閉じている」――その触覚をのばすことが自己愛を知る過程にはあると。エネルギーワークはその「触覚をのばす」ことだと、わたしは思っています。

 

 それは植物と似ています。

 

 太陽がなかったら植物は芽を出さない。太陽を知らなければ。これが「触覚」――愛を閉じて愛を感じないようにしてきたとき(それは過去がつくったさまざまな傷や防御からなるもの。「感じる」ことで傷つくと記憶から判断して、自分を守るために閉じていることも多い)、もしくは現実に愛されていないと感じるひとは、「愛を感じていない」ということで「太陽」があってもそれが「見えていない」ということがあります。「見えていても」それを見つめるのが怖かったり。あるいは自分から「太陽のない場所」に自らをみちびいたりする。

 

 そして「太陽」にむかって自分をのばすことをからだで感じるようになるうちに、自分自身の「器」をひろげてゆく、というか。「器」がひろがることでそれまで「これが自分だ」と思いこんでいたもの、まとっていた殻が外れてゆくことがあります。それは自分でも知らなかった自分に“気づくこと”ですが、その殻(いくつの殻を自分自身にかぶせているかはひとによって異なり、硬く頑丈な殻のなかで「閉じている」ということもあると思います)を破ってゆくうちに自分自身の本質に近づいてゆき、これが「本来の自分に還る」ことだと、わたしは思っています。

 

 

 

 頭で“考える”力の強いかたは、エネルギーワークにおいて、「それにどのような意味があるのか」というように“意味”を考えてしまうかもしれない。それは当然だとも思います。大切なご自分を知らないものにゆだねること、けっして安価ではないお代金も発生すること、さまざまな要因で「否」と感じることもあると思いますし、そして「必要ない」と思われるならば、きっとそのとおりなのです。ご興味があれば「わからなくても」自然といらっしゃるのではないかとわたしは思うからです。

 

 わたしのセッションでなくとも、施術者はいる。ご自身に呼応する場所にみちびかれるように、まだ見ぬその場所へみちびかれるかたもいらっしゃるでしょうから。

 

 そのうえであえてわたしにといってくださることはとてもありがたく、大切なご縁をいただいたのだと思っていますし、その一度ずつにわたしの力を尽くしていきたいと思っています。